私は誰なのか。
うつ病になってから考え事をする時間が増えました。
「なぜうつ病になったのだろう?」
「どうして自分なのだろう?」
「こんなに苦しいのに誰も理解してくれない。」
「この状態から抜け出すことはできるのか?」
「このまま生きていくことはできるのか?」
「回復しても、またいつ症状が悪化するか分からない。怖い」
「あのとき別の選択肢を選んでいれば違ったのだろうか?」
グルグルと自問自答を繰り返しても納得できる答えは出ない。
まさに負のスパイラルです。
なぜこのような負のスパイラルに陥るのか?
「自分の特性を理解しよう」
この言葉に集約されるのではないかと考えています。
実際に特性をまとめて感じた私個人の所見を4点を書き記します。
①特性を理解するために過去の自分と向き合う
同じ轍を踏まないため過去を振り返る作業は必要だと頭では理解しています。
しかし、うつ病になる過程を自分で分析するのは自分自身にメスを入れて手術するようで苦しみを伴います。
それがこれからの幸せにつながるのか疑問を抱きました。
②特性を理解するために膨大な時間がかかる
皆さんは自分自身の人生を振り返る時間を持っていますか?
社会人になってから、昨日何をしたか。一昨日何をしたか。
去年何をしたか。社会人になってから何をしたか。
学生時代に何をしたか。もっと幼い時に何をしたか。
その全てを振り返える人は少ないのではないでしょうか。
私は日記を書く習慣は持ち合わせていなかったため記録はゼロ。
記憶を頼りに過去の出来事を思い出し特性把握を行いました。
幼少期~現在までの自分史を書くだけでも時間がかかります。
その出来事に対する当時の考えや思い、感情を思い出すための時間も必要となります。
「考え方にクセはないか?」
「共通していることはないか?」
「どのようなことで落ち込みやすいのか?」
「どのような成功体験があったのか?」
「その時と今で感情の変化は?」
「その時取り巻いていた環境は?」
などを考えるため、本当に膨大な時間を特性理解に費やしました。
③その特性理解は正しいのか?
過去の自分と今の自分は違う人間です。
客観的に判断するため他人に特性理解を委任できるかというとそれはできません。
自分でも理解できていない気持ちを他人が100%理解できるということはありえないからです。
そのため特性理解は自分主体で行う作業となります。
しかし客観的な記録がないまま主観的な記憶を頼りに振り返っても、印象的な出来事や付随した出来事を思い出すことが関の山です。
特性は自身の成長や取り巻く環境・状況によって変化します。
過去の自分の特性を理解しても1ヶ月、半年、1年と経過すると別物になります。
ネズミのように回し車をグルグルと走り続ける感覚に陥ることもありました。
根っこの部分は同じだと思うのですが自覚できるまでに至るのは本当に難しいです。
④特性を理解したと認識した時点で考え方が硬直化するリスクがある。
以上で述べたように、膨大な時間と多大な心的負荷をかけて作成した特性は客観的に見て正しい正しくないという判断は別として、自己満足に終わる可能性があります。
「これだけ時間がかかった」
「つらい過去を振り返る作業は1度でこりごりだ」
「色んな人にも話しを聞いた」
「アドバイスをもらった」
だから、私はこういう人間なんだという流れです。
こうなると過去の自分に縛られてる可能性があります。
将来こうなりたいと考えても「特性」という盾を手に入れてしまうので新しい行動に躊躇も生まれます。
そして何度も反芻した特性は正しくなくても自分の無意識に刷り込まれてしまいそのような特性を裏付けるような根拠を探す、行動を取るといったことに繋がりかねません。
それで果たしてこれからの人生を幸せにすることができるのか。
今の私は疑問に感じています。
特性とどのように向き合うか?
私個人の考えでは自分で納得できる特性理解は必要だと思います。
心という目に見えないものと向き合うには自分の中の軸がないと判断が難しい状況も生まれるからです。
勇気を持って他人からの評価を受けたほうがより完成度は高くなるとも思います。
他人からはよく分かるのに当人には自覚がない行動。
そこに自分の本当の特性が隠されていることが多いです。
「印象的な出来事より日々の細かな考え方や行動の積み重ねが特性を作り上げている」
これが今回のまとめです。
つまり、特性は理解してからが始まりだということです。
固定観念にとらわれていないか疑いの目を向ける。
理解した特性を更新し続けること。
柔軟に対応する能力を身につけるために。
うつ病を再発させないために。
皆さんはどのようにして自分自身のことを理解されていますか?