「正しさ」という凶器。

おはようございます。こんにちは。こんばんは。

はじめに

ある一つの事実を切り取ったとしても受け取る人によって真実は異なります。その事実をどのように解釈、認識するかは個人に委ねられるためです。例えば5分遅刻した人に対して、遅刻はいけないことと叱責する人もいれば、何かあったのかと心配する人もいます。遅刻した人も、遅刻の原因を正直に答える人もいれば、嘘をついてごまかす人もいます。遅刻したという事実でもその人をずっと監視でもしない限りは真実は分からないのです。

5分の遅刻程度の解釈のズレであれば若干のストレスを感じたとしても自分か相手が引くことで解決することが多いです。真実も明確にしやすい。しかし、こと答えがない問題に関しては解釈や考え方が無限に生じえます。どのように生きるのか、どのように働くのか、どのような関係であり続けるのかといった問題は人によって解釈が異なります。そしてやっかいなことに自分の価値観や解釈が正しいと思い込んで場合によっては押し付けてしまいます。思っていなかったとしても自分の価値観や解釈がベースにあるため多少のバイアスが罹ってしまうのです。

正しいこととは?

ものごとにはセオリーがあります。こうすれば概ね良くなる、良くできる、ある程度の成果が保証されている方法です。このセオリーに拘った結果私はうつ病になりました。

セオリーはあくまで基礎を固めるための手段でしかありません。セオリーを学んでから工夫して応用しない限り成果は頭打ちになります。またセオリーは確からしいという曖昧な根拠で成立していることが多いです。環境や状況、自己の能力次第では成果が発揮できないこともあります。

私はセオリー人間になった結果、自己肯定感が低下し、意見を押し付けつようになりました。考えて行動しなくなり何をしていても満足できず幸福感を味わうことができなくなったのです。そして本当は何をしたいのか、どう生きたいのかということを無視したことで心の声が聞こえなくなってしまいました。満足や幸福を味わうことなく、セオリーによって一定の成果が出ていたのでその意見が正しいと盲信するようになりました。なんか良く分からないけど結果が出ているから正しいのだろう。というわけです。正しいことはやった方が良い。正しいことをやっていない人には教えなければという安易な発想で意見を押し付けるようになったのです。そして正しいはずのことを受け入れない人に対して苛立ちを覚えたり説得できないことへの焦燥感を募らせたりしていました。

本当に狭量な人間でした。うつになって暫く経ってこのことに気付き、考えているようで何も考えていなかったことを後悔しました。これからは何かのセオリーとか正しいと言われていることも盲信せず人にも押し付けないよう生きていこうと決意しました。

正しさという凶器を振り回さないため

正しさを押し付けることは人の可能性を閉ざす行為だと考えるようになりました。これが正しいという型に押し込めることで安心したいだけだったのです。理解できないことばかりの人とは上手くやれないし分かり合えないという思い込みがありました。自分の人生経験の薄さが露呈することを恐れたのかもしれません。まずは先入観をなくして受け入れようと思うようになりました。

正しさを押し付けてしまうときに共通していた考え方は、自分を変えずに他人に変わることを期待、強要していたことです。自分に正義があるのだから他人が変わるべきだという甚だ傲慢な思考が根底にあったのだと思います。そのような傲慢さは他人から見ると良く分かるものです。他人に変わることを強要しても自分は全く成長しません。むしろ自説が正しいと証明したいだけの状態になってしまい何の生産性もない時間を過ごすことになり兼ねません。

おわりに

世の中に絶対的に正しいことはそう多くはないと思っています。人と関わって生きている以上正しさを持ち出しても解決しないモノゴトの方が多いのではないでしょうか。結局はその正しさが納得できなければ押し付けに感じます。そのようなことが多くなるとストレスが溜まってしまいます。そしてその人を信じられなくなって関係性も悪化する可能性があります。少くとも私からは正しさを押し付けるようなことはしたくないと思っています。そして、誰かから正しさを押し付けられた時はその背景となる価値観や解釈がどこにあるのか冷静に見極めて過度なストレスを抱えないよう注意したいと考えています。

 

ここまで読んでくださりありがとうございます。何かの一助になれば幸いです。