自由が不自由に感じる。

おはようございます。こんにちは。こんばんは。

はじめに

幼少期や学生時代は大人になったら自由にできることが増えて人生楽しくなるだろうと夢想していました。しかし実際に大人になってみたら不自由さを感じて人生が楽しくないと思う瞬間が多くあります。

シンプルな生活を志してから自由な状態とは何かと考える機会が多くなりました。そして、うつ病と共に生活しようと真剣に向き合う覚悟が決まりました。自由とは何かという命題はあまりに哲学的過ぎて私には取り扱い困難です。しかし自らの行動を振り返り自由を奪って不自由に陥ってしまった原因にはいくつか共通点がありました。その共通点をご紹介したいと思います。

①思い込み

「〇〇でなければならない」「〇〇であるべきだ」「私は〇〇という人間だ」「私は〇〇というタイプだ」「私は〇〇であらねばならない」といった考えに縛られ過ぎていると不自由を感じることが多いです。

自己分析だとか、性格診断だとか、家族、親族、友人、知人から言われたとか、昔からそうしていたとか、仕事でよく言われているだとか、社会常識だとか。これらを参考にして自分のアイデンティティや自分らしさを知るきっかけにすることはあります。

問題になるのは、きっかけにすぎないこれらの考えに縛られてしまい、その他の考えや意見を真っ白な気持ちで受け止められなくなることです。このことが不自由さに足を突っ込む原因の1つにあるのではないかと思います。

私見というか経験談なのですが、アイデンティティや自分らしさが強固すぎると誰も口出しできなくなります。この人はこういう人だからという前提で物事が動き始めます。当人が変わらないと周りがフォローする体制が出来上がります。本人としては煩わしい物事が減って自由な時間が増える感覚になります。しかし実のところは当人がやるはずのことを仕方なく周りの人が善意でやってくれているのです。そして結果的に当人は成長機会を逃します。周りの人の方が体を動かし働いている分成長していきます。しかし当人は全く気になりません。より自由と感じる時間が増えるのですから。

今になるとこれが本当に自由なのか甚だ疑問です。その環境だから、フォローしてくれるから成り立つ自由、それも知らぬ間に成り立った自由は非常に脆いです。その環境から離れるや否や急に土台が崩れて不自由さを感じ始めます。本当に自由を勝ち取る意思がある人は再度0からコツコツと積み上げることもできます。一方で私のように自由の意味を履き違えた意思の弱いタイプは他人の責任にする傾向が強いように思います。「自分は悪くない自分をこういう状況に追い込んだことが悪いのだ」と。声に出していなくても顔に出ているものです。こんな不自由な状況はありません。

②受け身であること

楽しいことは簡単に手に入る世の中です。読書、映画や音楽、おもしろ動画、SNSなど娯楽系のコンテンツは簡単に安価に手に入ります。簡単安価ですがボリュームがあって飽きてきても新しいコンテンツが逐次投下されてきます。これらのコンテンツを消費していつの間にか1日が終わっていたという経験もあるのではないでしょうか。

主体的にこれがしたいと選ぶ過程があれば良いのです。そうではなく目の前のコンテンツに無意識に飛びついて消費している時間はないでしょうか。なんとなく続けている状態です。私にとってこの感覚は不自由さをもたらす一因になるのです。

適切な表現ではないかもしれませんが、目の前にぶら下げられた人参を追いかける馬のような感覚に陥ることがあるのです。もちろん、その中に人生や考え方を変える可能性がある出会いがあるかもしれないことは確かです。ただ、なんとなく続けている状態のときに巡り合う機会は少ないように思います。

娯楽だけではありません、仕事にしても同じではないかと感じるようになりました。指示された仕事をコツコツやることも大切です。しかし、どこか不自由さを感じます。ロボットでも良いのではと。どこかで自分なりの成長や楽しみを見つけることができれば自由にやらせてもらえているという感覚を持つこともできます。しかし、何を生み出しているのか、何も生み出していないのではないか、何に貢献しているかと疑問に思いながら指示された仕事を実行する。私の中ではこれは不自由さが勝ります。仕事においても主体的に選び取ったという感覚から離れれば離れるほど不自由さを感じてしまうのです。

組織人として生きるのが苦手なだけなのかもしれません。

③行動できない

うつ症状が重たくなると何も行動できない状態になります。この時は非常な不自由を感じます。楽しみだったこともできない。リラックスすることもできない。外出もほとんどできない。できないことのオンパレードです。普段当たり前にできていることができない恐怖は筆舌に尽くしがたいです。極限の綱渡りです。判断能力が落ちているためかその時期の記憶はほぼ残っていないですし死というものがここまで身近に迫ったこともありません。

今では自分の土台を築く上で必要な経験だったと前向きに捉えることができます。しかし、このような極限状況を何度も繰り返すことは本当に危険です。今後は全力で避けようと決意しました。

最初は何故こうなってしまうのかと理由を考え続けていました。考えて納得したこともあれば、納得できずに考え直すこともありました。その過程を経ることで考え方や認識、対処方法が柔軟になっていると思っていたのです。「考え方が変わった!これで安心!」と思っていた時期に症状が改善したこともありましたが、いつも最終的には症状が悪化し無力感に打ちひしがれるのです。うつ症状は長年改善しませんでした。そしてようやく考えるだけでは何も変化がないことに気が付きました。「考える人の像」のようにただそこにあるだけの置物でその場のその視点でしか物事を判断していなかったのです。

そのためシンプルな生活を志して行動を始めてみました。目標は具体的かつ体の動きが発生するものにする。例え細くても将来やりたいことに繋がっていると思えるのであれば迷いなく行動する。まずは飛び込んでみる。何かから逃げるかのように行動、行動、行動するようになりました。

行動重視の方は当たり前だと思うかもしれません。思考重視、悪く言えば頭でっかちの私にとっては何か行動するためには何かと理屈が必要だと思っていたのです。

今では行動することが自由への一歩だと考えています。思考と行動どちらに偏ってもいけません、行動しながら考える、たまに立ち止まるくらいが自分にとってちょうどよいと気が付きました。

まとめ

以上が私自身が自由を縛っていたことです。

何を選択してどのように行動するのも個人の自由だという考え自体は以前から賛成でした。認識が甘かったのは自由に行動すること=責任が生じるということです。この責任から逃れるために、自分の可能性を狭め、受け身に徹して、行動しないという選択を行っていたのだと思います。それが自分なりの処世術でもあったのです。不自由でも自己防衛のためにそうしていたのです。

しかし、今は真っさらな心持ちで主体的に行動するようになり、自由に伴う責任を受容できるようになってきました。他人に押し付けられる責任というのは息苦しいですが、自分の自由のため、幸福のための責任には充実感や満足感、良い意味でのプレッシャーが伴います。いい大人が今更ですが私にとっては望外の発見だったのです。

ひとつひとつ自分を縛っていることを解きほぐして、やりたいことに向けて行動することが自由への第一歩であると実感しています。完全に主観、私見です。しかも、他人は関係なくあくまで個人の意識の問題であった点は反省するところです。

 

ここまで読んでくださり本当にありがとうございます。何かの一助になれば幸いです。