普通とか常識で括るのは一種の暴力。

おはようございます。こんにちは。こんばんは。

はじめに

かつての私は偏見の塊でした。偏見は誰しもが持っているものです。私にとって問題なのはそれを受け止められなかったことです。怖い偏見に「普通」とか「常識」という言葉があります。私の偏見の源泉はこの2つの言葉に集約されています。

普通や常識

普通や常識を否定している訳ではありません。過去の経験であったり、社会生活を送る上で普通とか常識は自然と身に付くものだからです。これらを頼ることは処世術にもなり得ます。

何も考えずに普通とか常識を受け入れること。それがどのような意味を持つのか自分の頭で考えないのはとても怖い。さらに踏み込むと他人にこれらを強要するようになるとこれはもはや暴力だと思います。

時代や環境や状況が変われば普通や常識は変わります。歴史的に見てもそうです。ネットがある現在の普通や常識とネットが無かった過去の普通や常識は大きく変化しています。これはここ20年くらいの話です。

この普通や常識に敏感ですぐに適応できる人もいれば時間がかかる人もいます。それを適応できないことを理由に非難してしまう。これは言葉の暴力です。押し付けることで相手を傷つけることになります。それに気が付かないことが多いのかもしれません。当人にとっては善意で伝えていることが往々にしてあるからです。

普通や常識を疑った理由

うつと正面から向き合うようになってからこのように感じるようになりました。

うつという病はしんどいのですが様々なことを教えてくれます。その1つがこの普通や常識を疑って、自分の頭で考える、そして押し付けないように気をつけるということでした。自分にとっての普通や常識と他人にとっての普通や常識は違っていてそれが面白いところだと思うのです。強要することでその人が本来持つ個性を殺してしまうのではないかと今は不安に感じるようになりました。

決定的な出来事は、うつという悩みを共有する場に参加したことです。うつというラベリングを当事者である自分が無意識に行っていた。自分の症状が他の人にも当てはまるはずだと思い込んでいたということに気付くきっかけとなりました。

私の偏見かもしれませんが、うつを抱えている人は真剣に真面目に誠実に自分の人生と向き合っている人が多いように思います。真剣だからこそ心が壊れやすい。心の動きに敏感でそれが症状として出てしまう。生活に支障が出てしまうのです。

最初は少し抵抗があった人でもよくよく話を聞いてみるとハッとさせられるような考えを持っている。特性が色々あって興味の範囲が人によって全く異なるのでお話をお聞きしていても飽きることがまずありません。しかし自分が傷つけられた経験を持っていて他人を傷つけるかもしれない迷惑をかけるかもしれないという理由からあまり積極的には話せないと気持ちを伝えて下さる方もいらっしゃいました。

まとめ

うつになって少し社会の当たり前から離れてモノゴトを考えるようになりました。同じようにうつで悩んでいる人と時間を過ごして如何に過去の自分が普通や常識を押し付けて他人に不快な思いをさせていたのか、普通や常識に縛られて自由な発想を阻害していたのかという衝撃がありました。

普通であろうとか常識を守ろうということの暴力性についても考えるようになりました。法律違反とか他人に危害を与えるようなことはもちろんダメですし捕まります。問題は社会とか組織とか個人がなんとなーく持っている普通や常識を正義の御旗として押し付けることです。なんとなくなのに他人を無意識に傷つける。そのことがその人にとってのトラウマだったり生きづらさに繋がることがあると自覚することが重要です。

とは言っても私自身未熟なので「普通」や「常識」というフィルターを通して人と接することが多いです。これからはこういうフィルターは外して真正面からその人と向き合える人になりたいと思っています。

 

ここまで読んでくださりありがとうございます。何かの一助になれば幸いです。